フーコーの一章:何をしたら何かを「言った」ことになるのか?

1C1P(One Chapter for One Philosophy)」企画第一弾としてドゥルーズ「思考のイメージ」(『差異と反復』第3章)とフーコー「言表とアルシーブ」(『知の考古学』第3章)をそれぞれ全6回で解説する講座を並行しておこないます。こちらのページではフーコーの講座について説明します。ドゥルーズの講座についてはこちら

なぜこの本のこの章なのか

  • 『知の考古学』(1969年)はフーコーの唯一の「理論的著作」である。彼はほかの本では特定の歴史的トピックや作家・画家を主題としているが、この本ではそのような研究の理論的・方法論的な背景が語られる。
  • この章でフーコーが相手取っているのは構造主義言語学、分析哲学、スピーチアクト・セオリーであり、20世紀哲学を方向付けた「言語論的転回」に対するフーコーのスタンスが明示されている。
  • したがって「20世紀哲学入門」にもなる。
  • 「言表を定義する」という問いの設定がめちゃおもしろい。

この章のテーマ:言語とは何か

  • 言語学にも論理学にも頼らずに、ある言葉がひとつの言葉であること、その単位性unityをいかにして見出すことができるか?
  • まず、フーコーの「考古学」とは、過去の言説から、そこに埋め込まれ、分野をまたいで同時代に共有された、認識の「型」のようなものをあぶり出す実践である。フーコーはその「型」を「エピステーメー」と呼ぶ。
  • このとき問題になるのは以下の2点。
    • 膨大なアーカイブ(=アルシーブ)から何を基準にひとまとまりの「言説」を切り分けるのか。著者? 書物? 学問分野? 学説? しかしそのような区分けのシステムがどのように生み出され用いられるかも「エピステーメー」に含むのだとすると——とうぜん含まれるだろう——こうした区分は使えない。
    • 言説を切り出したとして、こんどはいかにして言説を構成するユニットとしての「言表」を定義すればよいのか。文? 語? 命題? スピーチアクト? しかしそれらから個々の言表が、自身が属する言説のなかでどのように機能するかを割り出すことはできないし、たとえば「性は抑圧されている」という文字列がフロイト以前以後で同じ言表であると言えるのかもわからない。ときに乱数表やグラフが言表として機能することも説明できない。
  • したがって「考古学」はたんに真新しい歴史学の手法である以上に、言語の存在論であり、ある言葉がたんなる線の塊や音の連なり「以上」のものになる、この「以上」を、あらかじめこしらえた普遍的なフレームによって説明するのではなく、むしろこの「以上」の歴史的個別性とその発生過程を取り扱うための理論である。

囓ることのできる哲学史上のトピック

  • フッサールの歴史哲学
  • バシュラールやカンギレムのエピステモロジー
  • ソシュール言語学
  • フレーゲ、ラッセルの論理学
  • オースティンの言語行為論

日程(隔週月曜20−22時)と各回のトピック(仮)

  • 5/20:フーコー概説、『知の考古学』概説
  • 6/3:言葉は「語」と「文」で成り立つのか?
  • 6/17:言葉の「意味」はどこにあるのか?
  • 7/1:言葉は何をしているのか?
  • 7/15:言葉はそれを言った者のものなのか?
  • 7/29:言葉、機械、歴史

講師:福尾匠

使用テクスト:ミシェル・フーコー『知の考古学』慎改康之訳、河出文庫
(講義内で原書や他の本も参照しますが、本書だけあれば大丈夫)

開催形態:ZoomもしくはYouTube Live、アーカイブ視聴可能、資料配付

価格:全6回15,000円
ドゥルーズの一章」とセット受講で20,000円

単体受講チケットリンク(STORES

セット受講チケットリンク(STORES

*申込期限5/12(日)


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